百済王子豊璋再論
昨日関西大学文学部教授の西本昌弘さんから手紙が来ました。歴史学術雑誌『日本歴史』 2006年5月号の抜刷論文が同封されていました。送っていただいてありがとうございます。
1993年に私の出した論文「百済王子豊璋の来朝目的」に応える形で論じられたものでした。(ちなみに来朝とは、
朝に来たわけでもなく、ましてや北朝鮮に来たという意味じゃありません。日本・といっても当時は倭国の朝廷に来たという意味です。)
私の出した論旨は3点です。
1,日本書紀に登場する百済王子・豊璋と翹岐は同一人物である。
西本昌弘さんが初めて論じた見解で、1993年当時は批判もありましたが、私は積極的に取り入れました。
2,豊璋が来たのは641年である
630年説、642年説、643年説などがありました
3,来朝目的は正式な使節、正式な王子としてである。
百済で政変があり、政争に敗れた人物が亡命的にやってきたなどの説がありました。
以上のようなものでしたが、今回西本さんは3の説を受け入れていただき、自説を修正していただきました。2については、 やはり改めて私の説は批判されました。しかし、13年ぶりに全面に取りあげていただき嬉しかったです。 また今年もせめて1本は歴史の学術論文を出したいところですね。とても刺激になりました。ありがとうございます。
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